今日夕方職員集会開かれ、院長への質問、また院長から経緯などの話をする機会が設けられました。
職員からは、数名の方から質問や今までの感謝を伝える言葉がありました。
院長からは、10年前からの経緯。松前のことが好きであること(生まれ育った札幌以外で10年という長い期間過ごしたのは松前だけであるため愛着もあることなど)、ここの町民や職員にいろいろと教えられたこと、勉強になったことを述べた後、この3年、4年がとても辛かったことを話されました。
努力しても為し得ることが出来ないむなしさ
を感じたということ。こちらがまっとうな話をして、客観的数値も出しているのにもかかわらず、話が全然進まないこと、見当違いなことで訴えられたこと(当然勝訴)などで身も心もズタズタになったこと。
「これ以上、ここで私が男気を出して、踏ん張っても本当に心筋梗塞で死んでしまいそうです。それに、ここで残ってしまったら、『医者は耐えてやってくれる』ということになってしまう」
「冷たいように感じるかもしれませんが、皆さん町民で町を変える行動をして下さい。」
「疲れました。次のステップに進みたいと思います」
以上のようなこと(一部言葉が正確ではないかもしれませんが大筋はあっていると思います)を話されました。
涙を流す職員もいましたが、はたして院長が伝えたかったことが本当に伝わったのでしょうか。
どんな思いで院長が辞表を出したか本当に伝わった人がどれだけいたのか、僕にはわかりません。
ここに来た3年前、入職して1ヶ月でいろいろな問題が表出し、ずっと側で見てきました。町民の中にも入って、いろいろな町民の方にもお会いして、いろいろな場所で病院の現状、真実を話してきました。
私自身も嫌な思いをたくさんしました。言われもない誹謗中傷の手紙をいただいたり、病院で待ち伏せされたり、居酒屋に行っても
「先生。先生は一部の情報しか知らない。本当は・・・」
と言って、間違った情報を耳打ちする人。
客観的なデータ、全ての情報を出しても、身近な誰かが言っていた噂だけを信じる人・・・
それでも、3年間我慢しました。この病院と町が全国の地域医療の一つのロールモデルになるお手伝いをさせてもらおうと。介護施設職員との勉強会・救急隊との勉強会・初期研修医や医学生の教育の場の提供。すべては、地域医療の継続的な医療の担保のためです。そしてこの町の本当に困っている人たちである
普段病院に通院されている高齢の方々が、自分たちの生まれ育った場所で最後まで過ごせるお手伝いをさせていただいていたつもりです。
田舎に医療を残すためには、医師にとっても魅力的な病院でありつづけなければいけません。一人のスーパースターがずっとその地域を守るなんてことはできません。いつか体調を崩すこともあるでしょう。歳をとって、パフォーマンスが下がることもあるでしょう。働いている医師に魅力があるということ以上に、システムに魅力があるということが大切です。
独立行政法人化をしても、私たち医師には経済的になんの得もありません。
時代が変わっても柔軟に対応出来るシステムを持つというだけです。病院をなるべく安く建てることがそんなにいけないことなんですか?公共事業だからって、割高でも地元優先にしないといけないのですか。そうすることで、町税を圧迫していいのですか。一部の人だけが潤っていいのですか。僕にはわかりません。
外来で何人もの患者さんに言われました。
患者「先生も院長に付いていって、でていくんか?」
僕「付いていくわけではありませんが、長くはここにはいれません。」
患者「いればいいでしょ!3年や4年だけ来て何しに来たの!」
僕「前から言っているようにもともと2年のつもりで来ました。でも、あの問題があって、町長が再度独立行政法人化へ手を取り合って頑張ってやっていくと言って医師が残りました。その後2年ずっと僕たちも耐えてきたんです。僕は町民のみなさんに言い続けました。このままではダメだ。問題は何も解決していない。もっと行動しないとと。
僕たちも辛いんです」
患者「私たちは、先生達いなくなったらどうしたらいいの?」
僕「それは町長に言って下さい。この病院の運営は町長にありますから。
医師が不足したら、町長が医師確保する。ですので、その質問は町長に言って下さい。」
こんなやりとりをたくさんしました。特にこの方は、僕がこの病院に来て初めて他院から紹介して頂き、ずっと外来で診させていただいてきた患者さんです。病気のことだけでなく、どんな生活をしているのか、どんな性格か。自分の祖母より知っているかもしれません。そんな方に涙目で
「死ねってことだね。」
と言われました。
言われたほうもどれだけ辛いか。自分の親は遠くにいて、何の縁もない土地でその地域の方のために医療を行い、大好きだった自分の祖母が亡くなったときには葬式にも行けなかったのに。
予想されたことがこれからどんどん起きてくるでしょう。
それは3年前から想定されていたことです。
今になって「どうしよう」なんて台詞は聞きたくありません。
それだけの犠牲をはらって、この町が生まれ変わることを祈っています。
このままだと、この町のことを好きじゃなくなってしまいそうです。
名張の内堀です。本当に、お疲れ様でした。m(_ _)m 同じ医師としては、それだけしか言えません。
本当によく今まで頑張ってきたよね。
そこまでやれたのは先生だからなんだろうけど、
これからは原点に戻って頑張ったらいいんじゃない?
医師を志すきっかけとなった地で…。
yamashinさん
お久しぶりです。喜界島、伊良部島、そしてここ松前といわゆる離島僻地と言われるところを経験させていただき、今回は同じ季節を3回同じ土地で迎えることで一年の移りゆきも感じることができました。
鎌倉のときからずっと考えていたのですが、離島僻地医療の大きな課題は、一人の医師が継続して頑張れない(都会もそうですが、一人の重みが少し違うと感じます)。医療の質を担保しづらい(これも医師が少ないことによる弊害かもしれません)ということです。
伊良部の時に感じましたが、bestではなくとも、betterな方法で医療の質を担保する方法(医師もその地域に住む人も)はやはり、同じグループでその地域をカバーするということかと考えます。1ヶ月単位、一週間単位、曜日ごと、いろいろな形態があると思いますが、「継続性」をグループで形成することが最低限必要かと思います。(一つの例が榛原病院のER応援)同じグループ(病院)からの派遣であれば互いに顔も、性格もそれなりに理解し合っているので何故その診断と治療を行ったのか解りやすいと思います。
滋賀に戻ること。これは、自分の中では崩れてはいませんが今回の件で少し臆病になっています。自治体病院でやっていくことの難しさ、今までのprivate病院での柔軟さとの違いを肌で感じました。自治体と共通認識で進んでいくことの難しさも学びました。離島僻地、地域医療を「生きがい」や「おもしろい!」と感じて、共に困難にも立ち向かえる仲間作りをしないといけないとさらに痛感した次第です。
yamashinさんも、地域への貢献・ならびに将来全国で活躍する後輩たちの育成、頑張って下さい!また、ご連絡します。
宇治徳洲会病院 末吉です。榛原では、お世話になりました。帰郷の際は是非遊びに来てください。僻地離島医療は、本当に難しいですね。徳洲会で、多くの離島医療を支えているのは奇跡的だと思います。waiwaiace@yahoo.co.jp
はじめまして。
自治医大出身の會田(アイタ)と申します。
同じ北海道の自治体病院経験者として、今回の状況痛いほど分かります。お疲れ様です。
先生の様にこの状況への打開策を模索する医師がいてくれる事は心強い限りです。
私もその一翼を担えればと思い、近々ブログなどを立ち上げる予定です。その際には先生のリンクなどを張ってもよろしいでしょうか?
数年後地域医療現場が少しでも改善している様にお互い頑張りましょう!
よろしくお願い申し上げます。
會田誠
會田誠先生
はじめまして。blogを読んでいただきありがとうございます。
一人ではダメで、スーパースターだけでは地域医療は安定供給されません。
ぜひ、お互いに頑張っていきましょう。リンクは張っていただいて構いません。
お久しぶりです。大学同級生の大塩(石田)です。夫が在宅医療をしている関係でときどきブログを見させていただいてました。先生が頑張っている姿をみて、コメントしました。本当に大変な中で診療しているんだね。私達は都会の在宅医なので、地方では本当にギリギリのところで保っているんですね。地方だと古くからの慣習とかも大切にしてそうだし、改革がより難しそう。都会でも医師の確保は難しいのに、、本当に大変だよね。滋賀でも北海道でもその他の地域でも、これからも先生らしい医師の姿を応援しています。
おつかれさま
日野病院 馬場
日野病院 馬場先生
ご無沙汰しております。先生から「本をいただく」ということが人生でこんなにインパクトがあることだと今になって気付いています。
私も研修医の先生や学生さんに一部あげるようにしています。(使い古しのものが多いですが笑)
自分のやりたいことを見失うことなく、また、修正をかけながら前進していこうと思っております。
また、ご挨拶に伺いたいと思います。今後ともよろしくお願いします。